Letter From 

   LosAngeles

ジュー・ザ・パックマン


 「ジュー」はニューヨークの見事なまでの黒人街の見事なまでの貧乏スラムで産まれた。

 挙げ句の果てに見事なまでに貧乏な家庭で、見事なまでにまともな生活環境ではなかった。
 見事という表現が適切かどうかは分からないが、本人がそういうのだからそうなんだろう。

 男兄弟5人のなかの長男だ。ジューの兄弟は女4人が先に産まれ、その後にジューが産まれた。
 その後も1年半間隔で弟が4人産まれたのだという。兄弟に親を含めると11人という大家族だから生活も苦しいに決まっている。

 ジューの両親はジャマイカで産まれた。そして彼等が20歳のときに結婚し、アメリカへ渡って来た。
 農夫として全米を渡り歩いたのちに、ジャマイカン・コミュニティーのあるニューヨークへ落ち着いた
のだという。ニューヨークに移ってからは父親はトラックの運転手をしていた。
 ちょっと珍しい響きの彼の名前は、彼がジャマイカ系だからだと本人は言うが、そんな名前は他に聞いことがない。

 親父はジューの4人目の弟が産まれた2ヵ月後に生活苦のため、リカーショップ(酒屋)に強盗に入り店員にショットガンで射殺された。そのときジューの親父が手に持っていた武器は100円ライターだったという。
 首から上が吹っ飛んでしまい、ジューの父親だと分かるまで2ヵ月もかかったらしい。

 母親は肉屋で働きながら9人の面倒をみてきた。その苦労たるや想像を絶するものだったに違いない。
 ジューはその頃、一晩中働き疲れ果て眠る母親の寝顔だけを見てきた。起きている所を見た記憶がない
のだという。普通なら売春でもするんだろうが「母親はフォードのトラックのようにでかかった」とジューは母親のことを表現する。

 2番目の姉は14歳で家を飛び出し、2度と戻って来なかった。3番目の姉も彼女が20の時から見かけていないのだという。2番目の弟は街のギャングに入り、あっさりと死んでしまった。

 ジューは12歳の時に初めて英語を勉強したという。喋れるのだが、読み書きが出来なかったのだ。
 まぁ、大袈裟な表現ではあるだろうが、この国ではそんなに珍しい事じゃない
 ジューは母親と同じ肉屋で働きながら学校に通っていた。しかし、スラムにある学校でまともな授業が受けられる訳もなく、彼は学校の図書館で小説「白鯨」を何回も読み替えし、それをノートに書き英語を独学で習ったのだという。
 その努力あってか、ハイスクールに入ると奨学金をもらえるようになった。少しはまともな学校に
行けるようになったが、バス代がないので往復3時間半かけて歩いて通ったのだという。

 ジューが17歳のときに学校で優秀な生徒の表賞があった。そしてさらなる奨学金を得て、設備の良い学校への編入が決まった。
 しかし、その式を見ていた生徒数人が「奨学金をもらった=金をもらった」と勘違いして、ジューはその日の放課後、数人に暴行を加えられ左目の視力とポケットに入っていた$10を失った。

 数年後、ジューはニューヨーク・シティ・カレッジに入学し、たった1年で名門「バークレー大学」に入学する。ジューは初めて外の州に出る事になる。ジューの貰った奨学金は学費と生活費を支給してくれた。
 これはジューが優秀だという証拠でもあった。
 この頃にゲームのパックマンに顔が似てることからパックマンというあだ名で呼ばれはじめたらしい。しかし正確にはパックマンではなく、パックマンに出て来るモンスターが逃げ回るときの顔に似ていた。早い話が唇が波打ってるように見えるというだけの事だ。

 彼は順調に事が進むかと思った。このまま卒業すればいずれは会社に勤め母親の助けになると堅く信じていた。ただ、その時点で彼の兄弟の半分は亡くなったり行方不明になっていた。

 彼が大学2年の時に、数年前から行方不明だった一番下の弟がカリフォルニアまで訪ねてきた。
 ジューは「俺の弟が訪ねて来るんだ」と友達を呼んでウエルカムパーティーの用意をした。
 兄弟の久しぶりの再会もあってパーティーは盛り上がった。ジューはかなり酒を飲み潰れてしまった。

 翌朝、物凄い叫び声とともにジューは目を覚ました。弟は左手に小さなリボルバー(銃)を握りしめ金を全部よこせと叫んでいた。周りには昨日弟と一緒に来た仲間数人も一緒だ。
 ジューは手持ちの金がなかったため、銀行に行き全財産でもある$800(8万円強)を差し出した。
 このままでは生活ができなくなるので、一応警察に通報したが、弟の名前は一切出さなかった。
 奨学金を出してくれる財団は、しぶしぶとジューに$500を渡したのだという。

 大学を卒業するとジューはロサンゼルスに移り大手アメリカ車メーカーに就職した。

 その後海外事業部に移り、5年間東京で暮らし日本語も少しは話せるようになった。

 そして、日本から帰国した2年後、ロスにある日系のバーで僕と知り合う事になる。

 ジューと僕との出会いと、ジューについて話そう。一貫性がないのは勘弁して欲しい。

 僕は基本的に知らない奴と話すのが嫌いなので、初めてジューに会った時も「うるさい黒人」くらい
にしか思わなかった。しかも微妙な日本語で話し掛けられるとウザくてしょうがない。
 あまりにしつこいので便所で殺っちまおうということになった時に、上手いタイミングで僕の友達が見知らぬ客と喧嘩になった。 数人でそいつらに殴る蹴るのカーニバル状態の時に酒ビンで相手の後頭部をガツン!と殴ったのがジューだ。相手の頭から吹き出る血を見てジューは一言「フジヤマ!噴火!」

 おもわず僕らは大爆笑しジューと意気投合してしまった。

 ただ、問題なのはジューがその日の出来事をまったく覚えていない事だ。なのでどうしてジューが喧嘩に参加したのかは誰も知らない。ただ、そのとき噴火した馬鹿も今では友達なのだが・・・ね。

 彼の陽気な性格はどこにいても笑いを誘う。スマップの「夜空のムコウ」をなかなか上手い日本語で熱唱する。ただ、日本語レパートリーがそれしかないので毎晩聴けば飽きてしまう。

 ジューは日本食が大好きだと言い張るのだが、タコとイカだけは喰えない。
 ただし彼の作るフライドチキンは絶品だ。隠し味にビールをぶちかますのがコツなのだという。

 彼はヒップホップやラップといったものを嫌がる。テレビに出て来る黒人はほんの一握りで、それを夢見る黒人少年に絶対な悪影響を及ぼすというのが彼の主張だ。映画に出て来る黒人の90%は馬鹿かギャングの役だ。警官だとしてもあまり良い印象ではないしギャングと変わらないと彼は言う。
 そうした信念もあってか、ジューは一般的な黒人英語を一切喋らない。とても聞きやすい綺麗な英語を彼は話す。電話で声だけ聞くとまるで「育ちのいい白人のニューヨーカー」だ。

 ジューには秘密が多い。まず、いまだに彼の正確な年齢を知らない。そして彼の彼女が日本人なのは分かっているのだが、誰も見た事がない。さらにジューのアパートには本当に何もない。
 冷蔵庫と電子レンジ、鍋が3つに皿が4枚にグラスが3つ。ソファーとコーヒーテーブル。
 小さいテレビはあるがビデオはない。寝室には目覚まし時計とベットがあるだけ。掃除機はいつも隣の人から借りている。一度どうして何もないんだと聞いたら「必要ない」とのことだ。
 せめてCDかラジオくらいあるだろうと思ったが「車に付いてる」と言われた。

 彼にはブラザーと慕う「マニー」という黒人がいる。マニーは日系の車メーカーに勤めており、よく僕達3人で飲みに行ったりしている。彼はニュージャージー出身で同じようにスラムから逃げ出してきた男なので気の合う所も多かったんだろう。よくスラムがいかに酷いか、いかに日本が素晴らしいか、日本人が恵まれているかと語る。「なんでこんな国に来たんだ?」は彼らの口癖だ。

 ジューの左腕には漢字で「壱拾ノ家族」と彫ってある。「壱拾」を「10」と読むとは恥ずかしながら僕は知らなかった。今、文章を書いて変換したときに出てきたのでビックリした。
 ちなみに彼の家族は11人いたはずだが、自分に銃を向けた弟はカウントしないのだそうだ。

 以上がもちろん全てではないが、ジューをほんの少しでも知ってもらうための最低限の情報だ。これ以上話しても別におもしろくもないし、このくらいあればジューがどんな奴なのか想像をすることができると思う。でなければあとは勝手にいろいろな付属品を与えてジューを作り上げてくれ。多分それでもあなたが創ったジューと本当のジューの間には大した違いはないと思うから。

 2002年8月。彼の母親が亡くなった。

 母親は数年前から心臓病で入退院をくり返していた。2003年の1月にロスのUCLA病院へ母親は移る予定だった。ジューはその知らせを受けるとすぐにニューヨークへ戻った。

 その日の晩ジューから電話があった。
 ジューと一番上の姉夫婦以外、誰も来てなかった。正確に言うならば連絡が取れなかった。
 ジューは長距離電話だからすぐ切るといったまま30分は泣き続けた。
 「泣いてどうにかなるんなら電話切ってから泣け!じゃなかったら泣くな!」と何度も言ったのだが聞いてはくれなかったようだ。それ以降、ジューの携帯電話に幾度となく電話したが応答はなかった。
 ジューのアパートに行ってみたが、家賃はしっかりと振り込まれているらしかった。

 ただ、ジューはそこにはいなかった。

 9月半ばになってようやくジューはロスに帰ってきた。
 どうして連絡しなかった?と問いつめると、電話を切った後、心優しい看護婦が精神安定剤をジューに
くれたらしいのだが、1錠のんでも利き目がなかったのでガバガバ飲んだ
というのだ。
 結果、みごとにその場でぶっ倒れて入院したのだという。その時に携帯電話を盗まれてしまい、連絡で
きなかったという。事実、アパートに来ていた携帯電話の請求書はジューが倒れてから退院し電話会社
 にストップをかけるまでの4日間、みごとに長距離電話がかけられまくっていた。

 ロスに帰ってきてからのジューは、何事もなかったかのように僕達に接していたのだが、10月のある晩一緒に飲んでいると急に自分の過去を語りはじめた。カラオケのリクエストの紙に・・・

 〜家族が何人で〜
 バークレー大学に〜$800取られて〜と口で説明しながらも事細かに書いていった。ジューが酔っぱらうのは珍しいことじゃないがあまり自分の事を喋らない奴だったので、なんとなくその場にいた奴はジューの話に聞き入ってた。

 そして2002年12月2日。ジューは心臓発作の為に自宅のキッチンで亡くなった。

 先日、引越の準備をしてたら、僕の車の中であの紙を発見した。
 上の文章はそれを元に僕の記憶と共に、できるだけ正確に書いたものだ。

「何処にでもある、何処かで聞いたような、どうしょうもないニガー(黒人)の話しだよ。
 スラム出身のニガーが100人いたら90人は同じような話を持ってるよ。」

 と最後にジューは言ったのを僕達みんな覚えている。

 2002年、僕は1人の左の視力がない黒人と、3年間一緒に暮らした最愛のウサギを失った。

(捕捉)

 ジューの死後、NYからわざわざやってきたジューの姉夫妻に会う事ができた。
 そしてジューについていろいろと話しを聞いたが、大抵の話を僕達は知っていた事に姉夫妻は吃驚していた。あまりジューの姉夫婦にとっては気持ちのいい話ではなかったと思うが・・・

 ところで、ここに来て僕達は初めて正確な年齢を知る事になる。
 それよりもあんた、けっこう歳だったのね・・・黒人だから分かりにくいんだよな。
 暗いと見えないし。

 今のうちに何処かに保存しとかないと忘れちまうので書いておいた。
しかし、本当に何処かで聞いた事あるような珍しくもない、そこら辺に転がってる小石のような話には変わりない。